「星の…乙女」
「そうだよ、ボリス」

呑み込みの悪い私に、あの方はただ泰然と笑っておられた。
そうして、頭上に広がる広大な空を仰ぎながら。

「彼女の声は星の声、彼女の意志は星の意志。僕達すべての生き物の母にして、地上のあらゆるいのちの根源」

「きっとお前も気に入るよ。自分の母親を嫌う子供など、そうそういないからね」











□■□










「あ…」

無意識に一歩、下がる。
の凝視する先で、ボリスがマントの裾を靡かせ、立ち上がった。

「そんなに怯えないで頂きたい。私は貴女に何もしないし、するつもりもない」
「………」

は後ろ手で、背後の金属の重い扉を必死にさぐる。駄目だ。完全に鍵がかかっていて、開かない。
あの司祭がハオの仲間だったなんて。
早く蓮達の所に戻って、そのことを伝えたいのに。

「…竜さんに、なにをしたの」
「何をしたとは、また愚問ですな。私は誇り高き吸血鬼。人間へすることなど、今更さして語ることもないでしょう」

何でもないことのように、微笑んで答えるボリス。
うっすらと香る、鉄錆にも似た微かな香り。

「愚かな人間など、私にとっては家畜同然」
「………」

は口を噤んだ。
やはり、そう簡単に話の通じる相手ではなさそうだ。
足の震えはまだ治まっていない。
今にも大声で助けを呼びたい感情に駆られるが、何とかそれを抑え込んだ。
扉は開かない。逃げられない。
ここには、自分しかいないのだ。

(こわがってはだめ。こわがっては、それは向こうの思う壺になってしまう…)

「…竜さんは、どうしたらもとに戻るの…?」

何とか己を奮い立たせ、負けじとボリスを見つめ返す。
けれど相手は、軽く肩を竦めただけだった。

不意に、ボリスが一歩進み、間合いを詰めてくる。
反射的には後ずさろうとしたが、背後は既に壁で、逃げ場はなかった。

「その様に怯えなさるな。言ったでしょう、貴女を傷つけるつもりはないと」
「じゃあどうしてこんなことっ…」

すると―――
ボリスが音もなく跪いた。
まるで出逢ったあの時のように。
さっきまで見下ろしていた彼の目が、今は空を仰ぐようにを見つめていて。

「貴女はハオ様の傍におられるべき方。あの方も貴女を欲しておられる。なのに貴女は、あのような下賤な人間どもと共にいる。…私には、それがとても耐え難いのです」
「下賤なって…蓮、たちのこと?」
「無論!」

唐突にその声が大きくなり、はびくりと肩を揺らした。

「―――私は、貴女をハオ様の元へお連れする為に、参ったのです」

恭しくボリスは首を垂れる。

「ハオ様のためにも…ハオ様が作る世界のためにも」

ボリスがゆっくりと顔を上げる。
は、その時ようやく気付いた。
彼の、崇拝にも似た―――憧憬のような眼差しに。

確かにを傷つけようとする気はないらしい。
だが、どうして、こんなに―――
彼の意図も気になるところだったが、何よりその視線が、を困惑させた。
そこにあったのは、敵意も害意もまったくない、純粋な敬慕の念だったからだ。
そうたとえばそれは、子供が母親を仰ぎみるような―――

「ああ」

ふと、ボリスが小さくため息を零した。

「やはりハオ様のおっしゃったことは正しかった。貴女を見ていると、まったく似ていないのに、何故か生前の母を想い出す」

そう懐かしそうに、それでもどこか淋しそうに微笑んだボリスの顔を、は、見た。



湧き上がる強烈なヴィジョン。

それはまるで白昼夢のように。
頭の内側から響く声がする。
『―――ごめんなさい』
知らない女性の、涙を浮かべた顔。それなのに、どこか、安心させようとするかのように優しく微笑んでいて。
続いてドンと身体に走る衝撃。まるで誰かに押されたように。
落ちる。落ちていく。視界の中、見る見るうちに小さくなっていく人影。
手を伸ばそうにももう届かなくて、

パパ……ママ……ッ!



唐突に引き戻される感覚。

「っ……あ…」

は喘ぐように息を大きく吸った。
まるで乗り物に酔ってしまったかのような、軽い浮遊感に襲われる。

なんだろう。今のは。

「如何された」

怪訝そうな声に顔を上げると、ボリスと目があった。
―――似ている。
どことなく、今のイメージの中にあった女性の顔に。

「…あなたは…」

今の映像はなんだろう。
もしカミサマが見せたものなら、一体どういう意味があるのだろう。

何故か―――あんなにも頭の片隅でうるさく鳴っていた警鐘はなりを潜め、もう不思議と怖くはなかった。
ただあの映像を見たあとの―――微かな、寂寥感だけが胸に残っていた。苦いような、切ない気持ち。
これは、何だろう?

は、呆然とボリスを見つめた。










□■□










いつの間にか町は水底のように真っ暗に静まり返っていた。
己の靴音だけが響く。

やがて町の入口へ辿り着くと、リゼルグはそこに、張り巡らされた黄色いテープと、目当ての白い装束を見つけた。
本来ならば、今彼は教会で竜の見張りをしている時間だった。
しかし。

―――『X-LAWSがこの町に来ている』

教会へ来たエリーの言葉で判明したことだ。
あれからリゼルグは、見張り番をホロホロに任せ、外へ出たのだ。

『共にハオと戦おう』

リゼルグの中で何度も何度も繰り返された言葉を発した彼らは、はたして、確かにそこにいた。

白装束のリーダー格であるマルコもリゼルグの姿を認めると、銃を構えたデンバットを制し、前へと進み出る。
ちょうど、黄色いテープを挟んで向かい合う形となった。

「すまないが、それ以上近付かないでくれないか。…君は確か、リゼルグ君だったね。どうしたんだい」

先日見た時とは打って変わった、優しげな口調でマルコが語りかける。
リゼルグは俯いた。
どうした…本当に、どうしたんだろうか。
こんなところまで、来て。

心が確かに何かを求めていた。
でも、それが何なのかわからなくて。

いくらか逡巡して、やがてリゼルグは顔を上げた。

「あの…あなた方は、何故ここに?」
「我々は、ハオに狙われた君たちを放ってはおけなくてね。君たちのことが心配で来たんだよ」

穏やかにマルコは微笑む。

「安心してくれ。我々は、君たちの味方だ。ハオを滅ぼすためだけに集まった、君たちと志を共にする者だ」
「こころざし…」

何故だろう。
その言葉が、とても、まるで染み渡る様に、己の中に沈み込んでいくのがわかった。
どうして、だろう。
まるで―――まるで、欲しかったものをようやく手に入れた時みたいに。

(おなじ、志)

「この町に、吸血鬼がいます。教えて下さい、僕たちはどうすれば…」
「今の君では、その吸血鬼を倒すことは出来ない」
「そんなっ…!」

「もし君が、本当にその吸血鬼を倒したいと望むなら、君は強くならなくてはならない」
「…っ…」

強く。
それは、ずっと自分が掲げてきた言葉だ。
両親が殺されてから、ずっと。
だけどそれは、すぐに叶うものではなくて。

「…ハオを倒すためには、仲間や自分の命さえも惜しんではいけないんだ。君にそれが出来るかい」

リゼルグは息を呑んだ。

強くなる。
ハオを倒すために。…それは、当たり前のことだ。
強くなる。強く、ならなければいけない。
強くなければ、ハオは倒せない。
強くなるためには、

――――命さえも、惜しんでは

「……っ…」

マルコの台詞が耳の奥でこだまする。

「―――ああ、そういえば君のところには、ハオの子孫である少年と、ハオと何らかの関係を持ったという少女がいるのだったね」

びくっとリゼルグは震えた。

葉くん。


―――

耐え難いほどの罪悪感が湧きあがる。
だけど今は、あの時湧きあがった疑惑を、冷静に見つめ―――そして肯定する自分も、存在していた。
揺らぎ続ける心。
だってあの時の感情を、もう、無くしてしまうことなど不可能なのだ。

それに。

あの場でアシルの台詞をいつまでも気にしていたのは、自分だけだった。
あからさまに、ずっと引きずっていたのは―――僕、だけだった。
だからあのあと、誰に打ち明けることもできなくて。だから誰とも感情を共有出来なくて。
本当はもっときちんと、真正面から、深く…
でも、出来なかった。

『君は気にならないの!? 葉くんがハオの子孫だって聞いて』
『あいつはあいつだ。そんなことは関係ない』

だって、そう言い切ってしまえる彼らに―――― 僕は一体、なにを打ち明ければ、いい?

どうしようもない溝を見つけてしまった。
どうしようもなく、すれ違ってしまった。

そして、何度も目を背けようとしたこと。
――――彼らと行動を共にしていく中で、自分は一度も、 孤独感 を味わわなかった?

(志を共にする……おなじ志を持った、仲間)

それは、先ほどマルコが告げた言葉。X-LAWSを称する言葉。
その言葉は刻み付けるように、何度もリゼルグの中で生まれては消えていく。

立ち尽くすリゼルグを、マルコはじっと見つめた。
柔らかな微笑の奥には―――何かを試すような、光。

「……まったく、難儀なことだね」

その呟きは小さすぎて、リゼルグの耳には入らなかった。










□■□










急に扉の向こうから足音がした。

「どこへいくの?」
「教会の地下室ですよ。そこなら安全です」

響いてくる、聞き覚えのある声。
は振り返り、慌てて声を上げようとして―――

「んっ」

背後から伸びてきた大きな手で、口をふさがれてしまった。
力いっぱいもがいても、びくともしない。

「少し、静かにして頂きたい」

少々手荒ですが、ほんの少しの辛抱です、とボリスの囁く声がする。
けれどそれに大人しく従うではない。

「んー…!」

だがどんなに暴れても、やはり全く口許の掌は動かない。
その上じたばたともがく腕ごと取り押さえられてしまう。
身動きが完全に封じられてしまった。

(だれか…!)

その願いもむなしく、ボリスは、を捕らえたままやや少し後ろへ下がる。まるで、隠れるように。
やがて―――
がちゃがちゃと鍵を開ける音が響き、目の前で扉がゆっくりと開いた。

「さあ着きましたよ。お嬢さん方」

そこへ入ってきたのは―――司祭と、彼につれられたミリーとエリー。暗がりの中、うっすらとわかる。
何かあったのだろうか。
二人は不安げに辺りを見回している。

(お願い、気付いて)

その司祭も敵なのだ。
そして今、の隣にも。

「今、明かりをつけますよ」

そう言って司祭がマッチを擦り、傍にあった燭台に火を灯す。
ぼんやりと部屋内は明るくなった。

そうして。

『っきゃああああああああ!』

エリーとミリーの悲鳴が響き渡る。
思わず抱き合った二人を―――ぞろりと身体の長い、緑色に光る得体のしれない化け物が、まるで獲物を値踏みするように取り巻いていた。
恐らく硬質と思われる殻と、何本もの節だった足。
百足を思わせるその形状に、離れているも鳥肌が立った。

「な、何なのこれェッ!」

エリーの言葉に、司祭は白々しい笑いを浮かべて、

「おや。私のオーバーソウルがどうかしましたかな?」

オーバーソウルを持つ、すなわちシャーマン。
その台詞に、二人はようやく司祭がただの人間でないことを悟ったようだ。
だがその間にも、その百足のオーバーソウルはぎちぎちと音を立て、エリー達との間合いを詰めていく。その気色悪さに、再び悲鳴が上がった。

「すまないが、君たちにはここで死んで貰うよ。ハオ様のために」
「ハオ…!?」
「―――どうだボリス。私の力も中々のものだ」

「……!」

を捕らえていたボリスが、動いた。
だが相変わらず口を塞ぐ手も、腕を押さえつける力も弱まっていない。も引きずられるように、ボリスと共に司祭の背後に立った。

「エリー…」

ミリーの震える声がする。
の姿は、ボリスの真っ黒なマントに紛れているせいか、彼女たちに気付いてもらえない。
司祭のどこか傲慢な声が響く。

「さあボリス、奴らは同士討ちまで始めた。今なら皆殺しに出来る。ここで一気に―――」



不意に。

の身体が自由になった。
拘束していた手が、離れた。



(え―――?)



そうして。

次の瞬間目の前で響いた鈍い音に、は、自分の目を疑った。



「―――人間の分際で、私に命令などするからだよ。…もう貴様は用済みだ」

司祭の身体を貫いたまま―――ボリスは淡々と告げる。
解放されたものの、その余りに信じられない光景に、は悲鳴をあげることも忘れ、その場で呆然と立ち尽くした。

(…なに、これ)

仲間、だったのではないのか。
なのにこれは―――何?

「―――なるほど。こんなところに隠れていたのか」

そこへ、新たな気配が加わった。
暗がりの中から音もなく現れたのは―――蓮と、葉。そして、リゼルグの姿。

「貴様、ら…わざと…」

苦しげな喘ぎが、司祭の真っ青な唇から洩れた。
けれど。

「……間抜けな」

ボリスが目を細める。
すると、司祭の口から苦悶の悲鳴が迸り―――見る見るうちに司祭の身体が干乾び、やがて砂状となったそれは呆気なく崩れ落ちていった。
後に残るのは、まるで抜け殻のような黒い祭服。

―――はようやく我に返った。

「蓮ッ!」

今頃になって、どっと冷や汗がこみあげてきた。
それでも必死に走って―――驚きで目を見張った蓮のもとへ、転がるように飛び込んだ。

ボリスの横をすり抜けた時、小さな舌打ちが聞こえたが―――最早気にしてはいられなかった。

! お前、どうしてここにっ」
「司祭さまに…騙されて、ここに…、閉じ込められてたの」

途切れ途切れに答えたに、蓮はいったん問うのをやめ、ボリスをぎりっと睨み付けた。

「貴様っ……」
「何もしていない。する筈がなかろう、大事な御方に」
「何…?」

その台詞に蓮は眉を顰めたが、ボリスはそれ以上答えることなく、毅然と葉達を見回した。
薄暗い闇の中、マントがばさりとはためく。

「我が名はボリス=ツェペシュ=ドラキュラ。高貴なるヴァンパイアである」

「―――おめェ、本物の吸血鬼だってのか」
「然様」

葉の言葉に、ボリスが頷く。

「そして、ハオ様のために生きる者でもあります。葉様」

ハオの名に、リゼルグが小さく息を呑む気配。

「―――

そんな彼らの横で、蓮はボリスを睨み付けたまま、そっと小さく、庇うように背後にやった彼女だけに聞こえるように囁く。
ぴくりと背後の気配が反応した。

「…大丈夫か」

ゆっくりと噛むように告げる。
彼女を少しでも安心させるように。

「………うん」

は、小さく、それでもしっかりと―――頷いた。